2019年12月10日火曜日

Project ”B”失敗で適応障害(鬱)を発症! (私は弱かった・・・)Part-3

これから書く記事は とっても贅沢な内容で御座いますし 愚痴もございます 

読まれて 不愉快に感じるかもしれない事を ご了承くださいますようお願い致します




もし 読んでしまい気分を害されても 病んだ頭の悪い年寄りの 贅沢な失敗談ですので お許しください










それでは・・・・Part-3 ジューケンの優しさの中で大きな決断と 次男の言葉












薬の即効性は無く 鬱が 益々 酷くなって 生きている意味が分からなくなっていきました 毎日 生きていることが苦痛で もう 楽になりたい!と 思うようになってきます





とにかく 病院の先生に教えて頂いた 適応障害の原因でもある 我が家を どうするのか? そこに焦点を当てて 治さなければ 本気で 死が目の前に 迫ってきます





今は 薬に縋って 妻と一緒にいることで 命を守っている状態











そんな妻が 私に 言いました










「3階がリビングじゃダメなの?」







『えっ?』






「太陽が当たらなくても 3階は 少しは明るんじゃないの?」







『確かに 明るいけど それでも 壁が出来るかもしれないよ』






「でも 2階よりは良いでしょ?それに 子供部屋とか寝室は寝るだけだから 太陽は関係ないじゃないの?」






『そぉ だけど・・・ 完璧な家事動線を崩してまで やる意味がある? それと 洗濯とか お風呂の掃除とか これから 俺たち 老いていったら 家事がさらに大変なるよ』






「わかるけど このままだったら マー君(私)が 苦しむだけだから・・・・それに 私 初めから 3階のリビングが良いと思ってたし・・・・」






そういって 妻は 間取りの変更を頼んできました











この会話 この言葉が 私を 大きく変えていきます

























2階3階変更のプラン 





















妻の助言で 私は 無謀なことを考えます





鉄骨の骨組みが建って ALC壁の下地が出来て 来月には 大工さんが入る段階で 大きな設計変更



普通は出来ないことです なぜなら すべての業者さんの段取りが 大幅に 変わってしまうから!



本当に 前代未聞なことを 私は 岡崎ジューケンさんへ お願いすることに・・・







お願いするのは良いのですが 2階と3階の間取りを変えるって 実際 ほぼほぼ 不可能なことなんですが とにかく 知恵を絞ります


その知恵は 今まで 何百通りのプランを練ってきて その中に 3階リビングのプランも作っていたので 3年ほど前から 間取り図面を引っ張り出してきて 鬱状態で 考えます




寝室 個室を2階に リビングを3階に!



間取りを作りながら 思い通りの家なんか もうできません とにかく 今は 太陽が当たるために パズルを組むように 配置を考えます






3日ほど 練りに練って とりあえずの間取りが出来ました




妻に 『ごめん 取り敢えずの間取りは出来たけど 多分 家事とか 大変になって 洗濯 衣類干し お風呂の掃除 店までのアクセス時間 ありとあらゆるものに 時間が かかっちゃうけど!』



妻は 「いいよ 今住んで居る家よりマシだから それに 今までより 早く起きて 家事すれば 良いだけだから 大丈夫だよ!3階のリビングで・・・」







この時点で 妻は 間違いなく 私に 気を使って 話しているのが よくわかりました




私は 妻に 『やってもらえるか 分からないけど ジューケンの社長に 聞いてみるね 』





妻は 「本当に ジューケンの社長さんには 迷惑かけちゃうね!」って





不安な気持ちで 2階3階の変更を その週の日曜日に ジューケンの社長様へ 電話を入れました













この状態で2か月間ストップ!社長に相談・・・



2階と3階の間取りを変更が出来るか ジューケンの社長に 聞くことにしました



社長は 私が 適応障害になったことを知っていて 普段より気を使ってくださっているのが分かりました



電話で 『ご相談があるんですが・・・』と言うと 日曜日にも関わらず ジューケンの社長は 直ぐに 現場へ 来てくださいました




多分 お休みの日だったとは思うのですが 直ぐに 駆けつけてくださいました




これだけで ジューケンの社長様の 誠実さや 営業を超えた 人としての魅力があります











私と社長で 現場の 2階ベランダに立ち これから 建つであろう南の家を想定して お話をしました




『社長 すみません お休みの所 お呼び出しをして・・・』




「いえいえ 良いですよ 調子が悪くなったの 監督から 聞いていますから・・」






『ほんとに すみません それで ご相談なんですけど 2階と3階の間取りを 変えることって 出来ますか?』








「本当は 出来ないんですけど お客さんが こんなに 体調崩されたんだったら やれないとは 言えませんですから・・・」









『業者さんにも ご迷惑をおかけしてしまって ほんとうに すみません』









「良いですよ そんなの気にされず とにかく 体調を 戻されてください」と













本当に 頭の下がる思いでした ただでさえ 安く値切って 儲けの少ない 建築工事なのに さらに 段取りを崩され 余分な仕事を 増やしてしまっているんですから















その後 私は 社長に 変更の追加金を おおよそで 聞いてみました






『社長 すみません 変更に当たっては 〇〇ぐらいは かかりますよねぇ』




〇〇ぐらいとは 大体 車1台分ぐらいの予算です








ご無理を 言っておきながら 私は 変更予算を聞きました 鬱状態でも ケチ臭さは 抜けませんでした








社長も「そうですね 〇〇ぐらいは かかりますねぇ」と









本当は お金の問題じゃなく ジューケンさんの段取りの問題なのに・・・・








『すみません 裏の方と 〇条工務店の担当者に どのような 家の建て方をするのか 確認したうえで 変更を お願いします 』











「わかりました こちらも 確認申請が 変更で済むのか 再提出になるのか 確認します もし 申請をし直すことに成ったら 設計を書き直すことになるので かなりかかりますけど・・・・」












こうして 前代未聞の 建っている途中の建築で 設計変更を 検討することになりました










予算も これ以上 借金が出来ませんので 次女の学資保険から 補填することになりました







お姉ちゃんの お古で成人式の次女
















私が鬱の状態で 次女が成人式です
 


次女の 成人式の着物は お姉ちゃんの お古で 参加してくれました





私は もう 次女に 頭が上がりません




子供の頃から ずーっと お姉ちゃんのお古や 貰い物を着てきた次女 成人式は 新品の晴着を着せてやりたかった・・・






18年間 この子の為に貯めてきたお金 そのお金を・・・・・OTL~






借りたお金は 必ず 返しますからね・・・・



















後日 裏の方とお話を・・・



















鬱状態のなか とにかく 2階と3階の間取りを変えるのに 3階まで 壁が来ては 意味がないと思い 確実な情報を得るために 恥を忍んで 聞くことにしました






ちょうど 区画整理の進行中であった 裏の道を お散歩されていることを知り 私は 走って 裏の方の所へ行きました






『すみません 大変失礼かとは思いますが 〇〇さんのお家の建て方を 教えて頂いてもよろしいですか?ほんとうに すみません』



すると 裏の方は 嫌な顔をせずに 「良いですよ」と 私の家の裏手にある 裏の方の家に行って おおよその 家の作りを お話してくださいました





「うちは ここからここまで 2階になります だから お宅の家は12時から3時まで 日が当たらないです・・・」







日が当たらない・・・・心が折れた OTL~ でも これは 仕方ない 何にも言えない!








『すみません 〇〇さんの家は 片流れの屋根ですか?』と 手のひらで 屋根の形状をまねて 尋ねました



「そうです 斜めの屋根です」









『しつこい様ですみません 屋根の勾配は 急な傾斜ですか? なだらかな傾斜ですか?』



「うちの屋根は なだらかな傾斜の屋根です」





ほんの少し 光明が差した!






『じゃ 3階のベランダまで かからないですかね?』





「多分 良いと思いますよ」と






確認してよかった 実際は どうかわかりませんが ほんの少しだけ 3階の光が守られる可能性が出てきて 私は 少し 気が楽になりました










裏の方は 紳士的な対応を取ってくださいました











後日 私は 確実な情報を得るために 〇条工務店西尾の担当者へ連絡を取ることにしました そりゃ 前代未聞の 建築途中の骨組みが建った状態で設計を変更するんですから それも それなりの追加金を支払って・・・・





裏の方の建築工事が始まって 土地改良で 杭を作っていました その 杭の業者の方が 私の家もされた方で お話をすることに!





『すみません その節は ありがとう御座いました』




「あ~っ こちらこそ もう 建ったんですね」




『ハイ 建ったんですけど ちょっと 今されているお家が 余りにも 私の家に近くて このままだと 太陽が当たらない家になってしまうことで 鬱になっちゃったんです』




「え~っ それは 大変ですね でも たしかに・・・」





『それで今 2階と3階を設計変更するのに こちらの家の屋根の高さを知りたくて 〇条工務店の担当者に確認したいんですけど 連絡できますか?』







「良いですよ 電話かけてみますね」











そういって 仕事を止めて 業者さんは 私の前で 電話をしてくださいました










『本当にすみません このままだと お正月も ずーっと 鬱状態で・・・・ 少しでも話を聞いて 楽になりたいんです』






そして 電話をして下さって





「一応 話の内容と 電話番号は教えておきました でも かかってくるかは わかりません ごめんなさい・・・ 」






『いえいえ そんな 〇条工務店へ つなげて頂いただけでも ありがたいです』と







こうして 私は 〇条工務店の担当者からのお電話を待つことにしました

















結果 〇条工務店西尾展示場の担当者からは 一切 電話がかかってくることは ありませんでした








ある意味 当然と言えば当然です





そりゃ 今後 ご近所トラブルが起きようが 隣に迷惑が掛かろうが メーカーは 知ったこっちゃありませんから



彼らは 家を売って 何ぼです! 建てた家に住む人の人生なんて どうでもいいんですからね!まっ 営業マンによりますけど・・・・






そうゆう意味では 私の建てる 岡崎ジューケンの社長様をはじめ 従業員の質の良さ 道徳心の高さは 比べ物にならないほど 大きいと言えます

















その後 私は 人生の一番大事な このタイミングで 子供(次男)から 一番大切なことを 教えられます
















杵築自動車学校の寮からLINE電話で・・・次男













次男へ 報告


大分県の自動車学校へ合宿中 仮免が受かったことを妻から聞いて 今回起きた 家の事を 謝ることにしました





何度も書きますが この家は 次男の新しい家族の為に作った家ですので 今後 この家で 生活を送る次男には 報告しなければと 鬱状態の中で お詫びをしまた








『本当に ごめん お前に 申し訳ないことをした 今 建てている家 失敗した・・・ 南側に 大きな家が建っことになって 1階と2階に 日が当たらない家になった ベランダの前も 壁になって 洗濯も干せない 本当に ごめんな・・・ お前が 喜ぶ家を建てたかったのに・・・』




次男は 私の話を LINEごしに 聞いていました





ところが 次男から 意外な言葉が!





「イイよ イイよ そんなの! 家なんか 住めればイイじゃん! 俺 思うんだけど 家ってさ ”どんな家に住むのか?”じゃなくて ”誰と住むのか?”が 大事だと思うんだよね・・・」




『・・・・・・・・』




「俺さ 前の家 細長くて 住みにくい家だったけど パパと かぁかと 兄弟姉妹4人で 住んでいて 子供の頃から 毎日 楽しかったんだよね!」





『えっ!』




「パパはさ~っ あんな おじいちゃんと子供の頃から暮らしていて ずーっと 嫌だったでしょ その点 俺は 6人の家族で暮らせて ほんと 幸せだったんだよね~っ だから 家なんて なんでも イイんだよ  別に そんなこと 気にしないからさ!」




次男は 私に こう言ってきました



私は LINEのモニターから外れて 次男に 分からないように 涙を流していました




次男の為に建てた家 私は 何にも 分かっていなかった




家で 最も大切なこと・・・・・ 






それは どんな家を建てるか!”じゃなくて ”どんな家族を作るか!”だった







鬱状態の中で ふぁ~っと 目が覚めました






19歳の次男に 私は また 救われたんです




次男が まだ小さな子供の頃から 私は この 前向きな考え方 家族への労り 思いやりに いつも 助けられてきました




次男の想いを聞いて 私は 決断します




前代未聞の 建設途中で 2階と3階の間取りを変更すると・・・・









心優しい岡崎ジューケンの社長!




次男の言葉を聞いて 私は 岡崎ジューケンの社長へ 2階と3階の間取りの変更をお願いしました


本来 絶対にやらない 建築工事を 岡崎ジューケンの社長は 何も言わず 承諾してくださいました



その後 社長様 自ら 変更の間取りのサンプルを作って下さり それを参考に おおよその間取りを 現場監督の鈴木君と 再度 打ち合わせをして 進めていくことになったんです







その間も 屋根の高さを 〇条工務店西尾の担当者へ お願いをしていたのですが 一向に 連絡はありません









設計変更で2か月・・・


設計変更を お願いして 家の方の工事は 完全に ストップ


岡崎ジューケンさんの下請業者様の 段取りを 狂わせてしまいました


この時点で ジューケンさんにも 今後の建築現場への 進行を 大きく狂わせることになります



本当に この建築会社の心の広さに 度肝を抜かれます



何度でも言います 普通 建築途中での設計変更はしませんから!














それと この間 私の方で 嬉しいニュースが入りまして・・・・ 




次男の就職先の合格が 伝えられました
次男の合格通知が 自動車学校終了の前に 送られてきました



鬱状態の中で 久しぶりに ”嬉しい!”という感情が 沸き上がります






ほんとに 子供に助けられます












そして 妻から 意外な言葉が・・・・・
(ちょっと 自分に酔った出来事・・・)



設計変更をお願いして 私は 妻へ 謝りました



『家の間取り 失敗しちゃって ごめんね・・・・ 借金も増えるけど 少しでも良くなるように 2階と3階 入れ替えたから ほんと ごめん・・・・ 』



何十年と 間取りに拘って 何百枚も プランを作り直して 書き上げたのに 自分の馬鹿さ加減に 本気で 申し訳ないと思っていました





しかし 妻は 私に こう返してきました





「本当に まぁくんだけが 悪いの?この街区で建った北側7軒で こんな風になったの うちだけだよ 他の6軒は みんな 南側の人達が配慮して問題ないのに 本当に まぁくんが間取りを失敗したの?北側の人達みんな 同じ配置で建てていて うちも同じなんだよ」







妻は 私を責めることなく かばってくれていました そして さらに 意外な言葉が出ました






「それに 北側の7軒の内 私達だけが 被せられて 1階2階と太陽が当たらないけど 〇〇さんの家の北側に 誰かが 建てないといけなかったんでしょ? だったら 他の人達が嫌な思いしなくて良かったじゃん! うち3階建てだし・・・・3階だけ 日が当たれば イイじゃん・・・」 



と・・・ さらに 妻は 私をかばうように 言葉を続けてきました








そう この街区で 誰かが 貧乏くじを引かなくてはならない 誰かが この人達の北側に建てなければならない



その貧乏くじを 私は 引かされてしまいました それも 人生をかけた 最後の大勝負に・・・・・ 惨敗を喫したんです







その貧乏くじを 妻は 当たりくじだと言うのです・・・・










私は こんな妻だから 30年間 助けられたんだと あらためて 感じていました













そして 年が明けて 2月・・・・・













鬱が無くなった!

不安な気持ちで 外装が始まり 2階と3階の設計を変えてもらって この日を迎えました





2月 〇条工務店西尾から 一度も返事はなく 無視された状態で 南の方の建前が終了しました




もう 生きた心地はしませんでした





建ってみて 2階の窓には 大きな壁が出来てしまいましたが 3階は 太陽光は当たることが分かって 何とか 首の皮一枚 繋がりました




その後 岡崎ジューケンの社長様も 現場の状況を見て 一緒に 笑顔が 戻ってまいりました




こういうところ やっぱり 地元の建築会社の 良いところなんでしょう 本気で 親身になって 家を建ててもらえて 喜びを分かち合えるんですから・・・・







そして 南の方の家が3日で 全容が分かって 私の適応障害は 一瞬で 消えてなくなりました





人の感情・・・ 脳の構造・・・ 50年以上 生きてきて 何も分かっていませんでした





もちろん 鬱状態の中 妻をはじめ 4人の子供たちの 私に対しての言葉や言動が 鬱の緩和を促してくれたことは 大きな力でした





家族ってイイな・・・・ 妻ってイイな・・・ 愛ってイイな・・・










この後 私は 異常なまでに この家に執着して 岡崎ジューケンさへ 無理難題を吹っ掛け ご無理を言って 家を完成させます












それでは 鬱後の 岡崎ジューケンが 建っまでの工程を ご紹介していきます















 







































2019年12月8日日曜日

Project ”B”失敗で適応障害(鬱)を発症! (私は弱かった・・・)Part-2

これから書く記事は とっても贅沢な内容で御座いますし 愚痴もございます 

読まれて 不愉快に感じるかもしれない事を ご了承くださいますようお願い致します




もし 読んでしまい気分を害されても 病んだ頭の悪い年寄りの 贅沢な失敗談ですので お許しください





それでは・・・・Part-2 医師の診断を受ける 












病院へ行くと決めた 次の日



その日も 1時間ほどの睡眠時間で 朝まで これから建つ家の最悪な環境が 何度も何度も 繰り返し 頭を駆け巡ります





ベランダに覆いかぶさることで太陽の当たらない部屋 24時間換気での騒音 エコキュートの深夜の低周波からくる健康被害 こちらに向けられる室外機の数々 言い出せばきりがないほど 私たちにとって最悪な家が 家族を守るために建てる我が家の南に建つ!






〇条工務店の電力革命という一見 未来を明るくする家は やり方を間違えると 近隣の人の健康を奪い 苦痛を与える住宅に代わる殺人鬼になります












考えない様にしても 湧いてくる! もう 自分の意志では止められない!





異常な動悸も 治まる兆しが無い 本気で考える 俺 このままだと死ぬんじゃないか?って 自ら命を絶とうとするんじゃないか?って・・・・








鬱は 想像を遥かに超えた病だった 







楽しい 嬉しい 幸せなどの 感覚を感じなくなり その感情すら 思い出すことができなくなります なのに 負の絶望感だけは 常に湧き上がり付き纏います




もう 今までの自分が 自分じゃないみたい!







今 思うと 直ぐに 病院へ行ったことが 幸いでした ほんと 妻のお蔭です











病院へ








この日は まだ 市場の競りに参加できないまま 注文したものだけを取りに行って 早々に帰ってきました


かれこれ 3か月は 八百屋さんを 休みなく働いて 疲労もあってか この鬱症状は さらに 拍車がかかっていました






午前中の配達も ひととおり済ませて 11:30頃 病院へ





どこかで 恥ずかしさもあってか 午前診療の 人の少ない ぎりぎりの時間での診察で行くことに!












診察室へ













直ぐに 診察の順番が回ってきて 神経内科の女性の先生に 今の 体の状態を説明しました




この鬱症状に あまり知識のない私は『こんな感じの状態なんですが ここでの診察でよかったでしょうか?』と 尋ねました







先生は「いいですよ」と それと「これは適応障害ですね!でも 大丈夫 得意分野ですから・・・」と







なんだ?適応障害って・・・・








ストレスに対する直接の反応としての 『うつ状態』」を医学的には「適応障害」というらしいです



うつ病は ストレスに対する反応なしに 発症してしまう むしろ 自発的にうつ状態になってしまう体質的な (脳の)病気が 『うつ病』というらしいです




なので 私は 適応障害ということになります




この 鬱病と適応障害は 治療の仕方が違うらしく 単純に 適応障害の場合は 原因(建築)を取り除けば よくなると




会社でストレスがあれば 会社を辞める! 嫁姑でストレスがあれば 別居!などなど 適応障害は 原因があるため なくせばイイだけだそうです






そう言いながらも 簡単に できないから 適応障害になるんですけど・・・・











適応障害の治療に当たって 私は 先生に『すみません 抗うつ薬は 依存性があるので 違う薬ありますか?』と!





先生も 「そうですね 安定剤や 睡眠薬は 依存性が高いから やめた方が良いですね」って





即効性はないのですが 時間は掛かっても 副作用の無い お薬を1週間分 頂くことにしました 









処方して頂いた薬です



 時間は掛かりますが ゆっくりと症状を和らげていきます







その後 短い時間ですが カウンセリングを受けます 発症に至るまでの経緯と 私自身の 行動 特に家族に対しての考え方や 接し方をお話しました




多分 発症に至るまでの 最大の原因である 建築を失敗した内容は あまり理解されていないようでした 



そりゃ ”家の失敗って!” なんだ?ですからね 若い女性の先生ですし・・・





しかし 家族の接し方で 子供や妻への心配する感情(心配性)には バッサリと切り込まれました





私は 家族を失う恐怖を いつも抱えていましたので・・・・





妻や子供たちを 失う事への不安を話すと 先生に言われました






「死ぬときは 誰でも死にますから 奥さんだって 子供だって いつかは 死んじゃうんですよ 気持ちは 分からないでもないですが あなたが言っていることって 地球が滅亡したらどうしよう!って言ってるのと 同じようなもんですよ・・・それって根拠の無い不安ですからね・・・」と






なんか ぼーっとした状態で 私は その言葉が 漠然と 腑に落ちたかんじでした









きっと この家族を失う恐怖は 私の欲なんだろう!それと 子供の頃のトラウマ!









長いこと話をして 最後に 私は 女医さんに こう言いました



『今回 鬱状態になって ここに来て良かったです もし 子供たちが 同じようなことになったら ここでの治療のこと 教えてあげられるんで・・・』と




私は 今まで 自分の得てきた経験や失敗を 子供たちに伝え 少しでも 苦の無い生活を送れるように 助言をしてきました





だから こんな言葉が 何も疑うこともなく 出てきたのです






私の発した言葉を聞いて 女医さんは すぐに 笑いながら 言葉を返してきました・・・・ 







「ハッ!ハッ!ハッ!ハ・・・ 病んでますね~っ 普通 そんなこと考えないですよ そんなこと言わなくても 子供たちは 子供たちで 勝手にやっていきますから!」








???なんだ? この笑い・・・ それと 病んでる? 確かに 俺 鬱だけど!








でも 病んでる”の意味が なんか違うぞ!









何かを 見透かした顔で 女医さんは 医学書の様な物を読んで 私に 質問をしました





「あなた 決断しないといけないとき いつも 決められない?」






即答で


『そうですね! 昔から 迷っちゃって 決められないですね それに 決めても いつも 後悔してます・・・』







「あぁ~っ なるほどね・・・・あなた 5行の5本柱の ”心”  相当 弱っていますね・・・これも これから ゆっくり強くしていきましょう!」








この時 やっと 私に言った 病んでる”の意味が 分かりました







私は 適応障害の前に もう すでに 家族への考え方が歪んでいたようです






それは 子供のころからの 理想の父親という得体のしれない空想へのコンプレックス そして 今までしてきた異常なまでの 家族への執着 必要以上の家族への想いが 大きく反動し 家の失敗で 脳にダメジーが起こってしまった事を 理解しました






このBlogも まさに 異常な家族への想いだったんだと・・・・







本当に凄いわ 神経内科の先生って 人との会話で ここまで 見抜くとわ・・・・






1週間後に また 来ることをお約束して 診察は終わりました







診察が終わっても 原因が分かっても 動悸は一向に収まる気配はなく 会計へ






会計を待つ間 ある事を思い出す・・・















大量の薬を準備してもらっている間 12時を過ぎて 誰もいなくなった待合室で 俯きながら 考えていました



なぜ 私は 家を作ることに 異常なまでに執着しまったのだろう・・・ 



女医さんに見抜かれた なぜ 私は 家族に対して 異常なまで 理想の父親を描いていたのだろ・・・



いつから こんな 自分になっていったのか・・・










ふと 幼少の頃の ある出来事を 鬱状態の頭で 思い出していました











なぜか いつも思い出す 私の嫌な子供の頃の記憶

















私の父には 弟がいます 私にとっては叔父ですけど その叔父は 1.5Kmほど離れた街に住んでいました 



叔父は事業に成功して 豊かな生活です







しかし 私は 自分の家族で いつも惨めな生活をしていました





親に お金がなかったからではありません・・・






それは 私の父が 家族に対して お金を使わなかったから もっと言うと 自分より 私たちが良い思いをしていると腹を立てて 当たり散らしていたからです さらに言うと 私たちが惨めな思いをしていると自分が安心していたようでした


虐待をする親の心理みたいなもの


いうなれば 唯一暴力を振るっても犯罪にならない家族(子供や妻)を 奴隷扱いして 自分の苦痛や恐怖の捌け口にしている人です






私の父は 気が小さいくせに 見栄を張るので 八百屋の市場でも よく 他の八百屋に馬鹿にされていたのを 私は小さいころから見ていたので・・・・










多分 大人に成るという感覚もなければ 親という自覚もなかったし

劣等感を 人一倍強く感じる人だから 自分より 弱い子供を殴りつけることで自己肯定感を得ていたのでしょう







対照的な 父と叔父 







私が5年生の時 私は 叔父の家で 屈辱的な思いをしたことがありました 





土曜日の午後 3つ下の弟と2人で 大池という場所へ 遊びに行った帰りの事です



その近くに叔父の家があり その前を歩いていた時 叔父に呼び止められ 私たちは 豪邸に招き入れられました



立派な玄関から入った私たちは  叔父の言うまま ダイニングのテーブルに座らされます





すると 叔父は 目の前のキッチンのコンロの鍋に火をつけました






私と弟は とにかく 驚きで言葉が出ません 叔父の家に招き入れられたこともですが 家の中が 余りにも うちと違ったからです




アメリカのドラマでしか見たことないような家 文化的な家 









うちと 何が違うって・・・・








私の家は ゴミ屋敷! 


それに戦後の古い設備の住宅ですし 商売をしていることもあって 一般的な家庭の家とは違います 玄関がないとか 脱衣場がないとか 家の半分が店とか?





それでいて 文化的な生活に意識の無い父なので 生活水準も低いです 




歯ブラシは家族で共有してるとか ご飯は2日目でも保温ジャーの中で黄色くなって臭くなっても食べるとか お風呂は 3日間洗わず ドロドロのお風呂に入るとか 台所には すぐに洗わないので いつも油まみれの皿と食べ残しが山になっているとか





叔父の家とは 余りにも違いすぎて 大きなショックを受けました







その叔父が 私と弟に 料理を振舞ってくれたんです




温めていたのは クリームシチューです もちろん レトルトではなく手作りの!




皿に盛って 出されたとき 叔父が 私たちに言いました





「お前らに 昨日の残りのシチュー食わしてやるから!」





悪気があって言った言葉ではなかったんでしょう




でも 私は もう 5年生 子供心に 歪んで理解していました




”残り物のシチュー” 




捨てるつもりだったシチュー もったいないから お前らに食わしてやるわ・・・・・


私には そう聞こえたんです



残り物・・・食べ残し・・・残飯・・・ゴミ!




その言葉を不快に感じながらも 横にいた 弟は そのシチューを 食べ始めます 



ほんとに嬉しそうに! 黙って もくもくと食べている







屈辱ながら 私も食べました  悔しいけど おいしい・・・・






そして 掻き込むように食べる 私たち兄弟に 叔父は こう言ったんです










「お前ら 袋のシチューしか食べたことないだろう?」








図星だった!





続けざまに・・・

「これが 本物のシチューっていうんだぞ!」









私の母は 毎日の夕食(店を閉めた21時から)で 同じ料理しか作らない! 

ジャガイモと玉ねぎを醤油と砂糖で煮て そこに卵を落としただけの 母独特の料理 それと味噌汁




これは50歳を過ぎてからなんですが この料理は 母が一番好きな料理で カレーとかハンバーグとかフライとか もちろんシチューも 自分が嫌いだから 作らなかったことを知ります




私は いつも そのおかずを食べて それから みそ汁に ご飯を入れて 犬と同じような食事をしていました





親が 同じことをしていたから・・・・











叔父の言った袋のシチューやカレーは よく 弟と 土曜日のお昼とかに 店から勝手に持って行っては 自分で温めて作って食べていた ククレシチューとボンカレーです



だから 叔父の言ったことに間違いはありません





でも 言われて 悔しかった・・・・・ 






叔父の家族は 前日に このシチューを 家族で 広いテーブルを囲み 笑いあって 食べている・・・・



私の家族は 毎日 同じものを 21時以降 お店を閉めた後に食べて 食事の最中では 弟と 楽しそうに笑うと 父が 急に怒りだし 茶碗を投げつけられる・・・ 








楽しそうに食べる叔父の家族を 想像すれば想像するほど 美味しかった残り物のシチューが 社会性の低い 私の家庭生活を 一層 惨めな思いにさせていきました












食事をご馳走になった後 小さな弟の手をつないで 1.5Kmの家路への道のりで 嬉しそうに帰る弟を見て 私は 涙が出てきました



本当に 子供の頃の 嫌な思い出です











そんな 体験をして 私は 思春期に突入して こう思うようになっていました




嫌な記憶を思い出すたびに・・・・


どうして 父と叔父は こんなにも違うんだ! 同じ親から生まれた兄弟なのに!







なんで 叔父の家族は幸せで 私の家族は惨めなんだ! 違うな 私と弟は なんで こんなにも 惨めだったんだ!









を大事にするって 家を大事にするってことだろう 


家を大事にするって 子供を大事にするってことだろう 


子供を大事にするって 先祖を大切にするってことだろう









なんで 親が 我が子に 惨めな思いをさせるんだ

なんで 親が 無抵抗の我が子を 傷つけるんだ

なんで 親が 我が子を 守ろうとしないんだ

なんでだ!







父親一つで こんなにも 子供が惨めになるのか? こんなにも 家族が悲惨な思いをするのか?って






だから 俺は 自分の子供は 絶対に守りたい! 無力な子供に寄り添い そばに居てやれるような そういう父親に成りたいんだ!って





あの時から 成人しても 結婚しても 親に成っても 子供が巣立っても ずーっと 思い続けていた













間違いなく 40年前 この 叔父の家で食べた 残り物のクリームシチューが 私の 異常なまでの家族への想いを 強くしてきたんだって・・・・




・・・・・・・・・・・・・・・・




・・・・・・・・・・・・・・・・






「○○さ~ん」





自分の世界に入り込んでいた私は  名前を呼ばれて ハッと 我に返りました









会計を済ませ 薬をもらって 病院を出ました




車に乗って 運転席に腰を下ろすと ふと 気づく










俺 自分の親が 自分だったら・・・・・ そう思って 父親してたわ!







そして この 綺麗ごとで 歯の浮くような 気持ち悪い言葉を並べた 私のBLOGも・・・



読まれることのない 子供達への 沢山のメッセージも・・・






我が子に送った メッセージじゃなかった!









子供達へ送っていたメッセージは 全部 ”子供の頃の自分” ”過去の幼い自分”へ 宛てた メッセージでした!








自分の父親に 言って貰いたかった事 救ってもらいたかった事 守ってもらいたかった事 その言葉を 自分に宛てて 書いていました!











それが 今回 女医の先生のお陰で よーく分かった










私は 幼稚な父親からの 父親コンプレックスに 苦しんでいたんだと・・・・・











帰宅すると 妻に 病院で言われたことを 細かく話しました 

妻は なんとなく その話を聞いて 納得したようです




ずーっと私を見てきた妻には 分かっていたんですね





それから 妻が 「8月下旬から9月10月11月と 1日も休んでいないよ」って 言ってきたので 12月に入って 気晴らしに 京都へ行くことにしました



この間 建築はストップ状態です









京都 東本願寺へ


久しぶりの休みを貰って行ったのは 京都にある東本願寺というお寺です





鬱状態なので 京都への道のりも 妻と楽しく話せるはずもなく 途中 外食をするも 味がしないので 美味しくもなければ楽しくもない!





妻も 私に気を使ってくれているのが分かる 多分 楽しくないだろう でも 一生懸命 ”私は楽しいよ!”って 無理をしているのは よくわかりました








今回 私は ここ 東本願寺へ お詫びをしに 来ました





それは 44年前祖父が他界し 39年前に ここ東本願寺に納骨されていたからです






今回 私の判断ミスにより 区画整理後の 新しいお店 自宅を 失敗してしまった事へ 祖父に お詫びをしに来たんです






なんで祖父?って ことですが 今回の区画整理には 建て替えの補償金が頂けます





ベル商店は 昭和20年に 祖父が建てたお店兼住宅です その店を壊したことで 私は 数十パーセントの割合で 補償金を頂きました



解体費やら その他諸々 支払い分を引いたら 事実上 父の方が 沢山 貰っているんですが・・・





私は 少なくても 44年前に亡くなった祖父から 建築費の一部を頂いたことになるんです





その祖父から頂いた大切な建築費の一部を 私は無駄にしてしまったと考えたからです






だから 祖父の遺骨が眠る東本願寺へ お詫びに行きたかった





気持ちの問題だ!って 言われればそれまでなんですけど・・・














昼過ぎに 私たちが 本堂に入ると ご本尊の阿弥陀如来の前へ 妻と二人で座り 手を合わせていました






すると 静かに 後ろの方から 雨音が聞こえてきます 

なぜか 雨が急に降り出しました






静まり返った本堂の中に 心地の良い音が 耳から すーっと入ってきて 私は 久しぶりに 気持ちが癒されていきました







妻と二人 1時間以上 黙って座り 合掌をしながら 私は 祖父に ”すみませんでした” ”本当にすみませんでした”と 何度も 何度も お経を唱えるように 謝り続けていました







今思うと 鬱は 自ら命を奪う危険性のある病です 





あの時 とっさにとった行動(京都への旅)でしたが 祖父にお詫びをすることで 私は ほんの少し 助けられていたのかもしれません







もちろん 何も言わず 私に対して不安な気持ちのまま 付いてきてくれた妻には 本当に感謝しかありません 私以上に つまらないお出かけだったでしょうね











この後 私は 妻の助言で 大きな決断をすることになります・・・・そして 根底から覆される体験をします







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