これから書く記事は とっても贅沢な内容で御座いますし 愚痴もございます
読まれて 不愉快に感じるかもしれない事を ご了承くださいますようお願い致します
もし 読んでしまい気分を害されても 病んだ頭の悪い年寄りの 贅沢な失敗談ですので お許しください
読まれて 不愉快に感じるかもしれない事を ご了承くださいますようお願い致します
もし 読んでしまい気分を害されても 病んだ頭の悪い年寄りの 贅沢な失敗談ですので お許しください
それでは・・・・Part-2 医師の診断を受ける
病院へ行くと決めた 次の日
その日も 1時間ほどの睡眠時間で 朝まで これから建つ家の最悪な環境が 何度も何度も 繰り返し 頭を駆け巡ります
ベランダに覆いかぶさることで太陽の当たらない部屋 24時間換気での騒音 エコキュートの深夜の低周波からくる健康被害 こちらに向けられる室外機の数々 言い出せばきりがないほど 私たちにとって最悪な家が 家族を守るために建てる我が家の南に建つ!
〇条工務店の電力革命という一見 未来を明るくする家は やり方を間違えると 近隣の人の健康を奪い 苦痛を与える住宅に代わる殺人鬼になります
ベランダに覆いかぶさることで太陽の当たらない部屋 24時間換気での騒音 エコキュートの深夜の低周波からくる健康被害 こちらに向けられる室外機の数々 言い出せばきりがないほど 私たちにとって最悪な家が 家族を守るために建てる我が家の南に建つ!
〇条工務店の電力革命という一見 未来を明るくする家は やり方を間違えると 近隣の人の健康を奪い 苦痛を与える住宅に代わる殺人鬼になります
考えない様にしても 湧いてくる! もう 自分の意志では止められない!
異常な動悸も 治まる兆しが無い 本気で考える 俺 このままだと死ぬんじゃないか?って 自ら命を絶とうとするんじゃないか?って・・・・
鬱は 想像を遥かに超えた病だった
楽しい 嬉しい 幸せなどの 感覚を感じなくなり その感情すら 思い出すことができなくなります なのに 負の絶望感だけは 常に湧き上がり付き纏います
もう 今までの自分が 自分じゃないみたい!
もう 今までの自分が 自分じゃないみたい!
今 思うと 直ぐに 病院へ行ったことが 幸いでした ほんと 妻のお蔭です
病院へ
この日は まだ 市場の競りに参加できないまま 注文したものだけを取りに行って 早々に帰ってきました
かれこれ 3か月は 八百屋さんを 休みなく働いて 疲労もあってか この鬱症状は さらに 拍車がかかっていました
午前中の配達も ひととおり済ませて 11:30頃 病院へ
どこかで 恥ずかしさもあってか 午前診療の 人の少ない ぎりぎりの時間での診察で行くことに!
診察室へ

直ぐに 診察の順番が回ってきて 神経内科の女性の先生に 今の 体の状態を説明しました
この鬱症状に あまり知識のない私は『こんな感じの状態なんですが ここでの診察でよかったでしょうか?』と 尋ねました
先生は「いいですよ」と それと「これは適応障害ですね!でも 大丈夫 得意分野ですから・・・」と
なんだ?適応障害って・・・・
ストレスに対する直接の反応としての 『うつ状態』」を医学的には「適応障害」というらしいです
うつ病は ストレスに対する反応なしに 発症してしまう むしろ 自発的にうつ状態になってしまう体質的な (脳の)病気が 『うつ病』というらしいです
なので 私は 適応障害ということになります
この 鬱病と適応障害は 治療の仕方が違うらしく 単純に 適応障害の場合は 原因(建築)を取り除けば よくなると
会社でストレスがあれば 会社を辞める! 嫁姑でストレスがあれば 別居!などなど 適応障害は 原因があるため なくせばイイだけだそうです
そう言いながらも 簡単に できないから 適応障害になるんですけど・・・・
適応障害の治療に当たって 私は 先生に『すみません 抗うつ薬は 依存性があるので 違う薬ありますか?』と!
先生も 「そうですね 安定剤や 睡眠薬は 依存性が高いから やめた方が良いですね」って
即効性はないのですが 時間は掛かっても 副作用の無い お薬を1週間分 頂くことにしました
処方して頂いた薬です
時間は掛かりますが ゆっくりと症状を和らげていきます
その後 短い時間ですが カウンセリングを受けます 発症に至るまでの経緯と 私自身の 行動 特に家族に対しての考え方や 接し方をお話しました
多分 発症に至るまでの 最大の原因である 建築を失敗した内容は あまり理解されていないようでした
そりゃ ”家の失敗って!” なんだ?ですからね 若い女性の先生ですし・・・
しかし 家族の接し方で 子供や妻への心配する感情(心配性)には バッサリと切り込まれました
私は 家族を失う恐怖を いつも抱えていましたので・・・・
妻や子供たちを 失う事への不安を話すと 先生に言われました
「死ぬときは 誰でも死にますから 奥さんだって 子供だって いつかは 死んじゃうんですよ 気持ちは 分からないでもないですが あなたが言っていることって 地球が滅亡したらどうしよう!って言ってるのと 同じようなもんですよ・・・それって根拠の無い不安ですからね・・・」と
なんか ぼーっとした状態で 私は その言葉が 漠然と 腑に落ちたかんじでした
きっと この家族を失う恐怖は 私の欲なんだろう!それと 子供の頃のトラウマ!
長いこと話をして 最後に 私は 女医さんに こう言いました
『今回 鬱状態になって ここに来て良かったです もし 子供たちが 同じようなことになったら ここでの治療のこと 教えてあげられるんで・・・』と
私は 今まで 自分の得てきた経験や失敗を 子供たちに伝え 少しでも 苦の無い生活を送れるように 助言をしてきました
だから こんな言葉が 何も疑うこともなく 出てきたのです
私の発した言葉を聞いて 女医さんは すぐに 笑いながら 言葉を返してきました・・・・
「ハッ!ハッ!ハッ!ハ・・・ 病んでますね~っ 普通 そんなこと考えないですよ そんなこと言わなくても 子供たちは 子供たちで 勝手にやっていきますから!」
???なんだ? この笑い・・・ それと 病んでる? 確かに 俺 鬱だけど!
でも ”病んでる”の意味が なんか違うぞ!
何かを 見透かした顔で 女医さんは 医学書の様な物を読んで 私に 質問をしました
「あなた 決断しないといけないとき いつも 決められない?」
即答で
『そうですね! 昔から 迷っちゃって 決められないですね それに 決めても いつも 後悔してます・・・』
「あぁ~っ なるほどね・・・・あなた 5行の5本柱の ”心” が 相当 弱っていますね・・・これも これから ゆっくり強くしていきましょう!」
この時 やっと 私に言った ”病んでる”の意味が 分かりました
私は 適応障害の前に もう すでに 家族への考え方が歪んでいたようです
それは 子供のころからの 理想の父親という得体のしれない空想へのコンプレックス そして 今までしてきた異常なまでの 家族への執着 必要以上の家族への想いが 大きく反動し 家の失敗で 脳にダメジーが起こってしまった事を 理解しました
このBlogも まさに 異常な家族への想いだったんだと・・・・
本当に凄いわ 神経内科の先生って 人との会話で ここまで 見抜くとわ・・・・
1週間後に また 来ることをお約束して 診察は終わりました
診察が終わっても 原因が分かっても 動悸は一向に収まる気配はなく 会計へ
会計を待つ間 ある事を思い出す・・・
大量の薬を準備してもらっている間 12時を過ぎて 誰もいなくなった待合室で 俯きながら 考えていました
なぜ 私は 家を作ることに 異常なまでに執着しまったのだろう・・・
女医さんに見抜かれた なぜ 私は 家族に対して 異常なまで 理想の父親を描いていたのだろ・・・
いつから こんな 自分になっていったのか・・・
ふと 幼少の頃の ある出来事を 鬱状態の頭で 思い出していました
なぜか いつも思い出す 私の嫌な子供の頃の記憶
私の父には 弟がいます 私にとっては叔父ですけど その叔父は 1.5Kmほど離れた街に住んでいました
叔父は事業に成功して 豊かな生活です
しかし 私は 自分の家族で いつも惨めな生活をしていました
親に お金がなかったからではありません・・・
それは 私の父が 家族に対して お金を使わなかったから もっと言うと 自分より 私たちが良い思いをしていると腹を立てて 当たり散らしていたからです さらに言うと 私たちが惨めな思いをしていると自分が安心していたようでした
虐待をする親の心理みたいなもの
いうなれば 唯一暴力を振るっても犯罪にならない家族(子供や妻)を 奴隷扱いして 自分の苦痛や恐怖の捌け口にしている人です
私の父は 気が小さいくせに 見栄を張るので 八百屋の市場でも よく 他の八百屋に馬鹿にされていたのを 私は小さいころから見ていたので・・・・
多分 大人に成るという感覚もなければ 親という自覚もなかったし
劣等感を 人一倍強く感じる人だから 自分より 弱い子供を殴りつけることで自己肯定感を得ていたのでしょう
対照的な 父と叔父
私が5年生の時 私は 叔父の家で 屈辱的な思いをしたことがありました
土曜日の午後 3つ下の弟と2人で 大池という場所へ 遊びに行った帰りの事です
その近くに叔父の家があり その前を歩いていた時 叔父に呼び止められ 私たちは 豪邸に招き入れられました
立派な玄関から入った私たちは 叔父の言うまま ダイニングのテーブルに座らされます
すると 叔父は 目の前のキッチンのコンロの鍋に火をつけました
私と弟は とにかく 驚きで言葉が出ません 叔父の家に招き入れられたこともですが 家の中が 余りにも うちと違ったからです
アメリカのドラマでしか見たことないような家 文化的な家
うちと 何が違うって・・・・
私の家は ゴミ屋敷!
それに戦後の古い設備の住宅ですし 商売をしていることもあって 一般的な家庭の家とは違います 玄関がないとか 脱衣場がないとか 家の半分が店とか?
それでいて 文化的な生活に意識の無い父なので 生活水準も低いです
歯ブラシは家族で共有してるとか ご飯は2日目でも保温ジャーの中で黄色くなって臭くなっても食べるとか お風呂は 3日間洗わず ドロドロのお風呂に入るとか 台所には すぐに洗わないので いつも油まみれの皿と食べ残しが山になっているとか
叔父の家とは 余りにも違いすぎて 大きなショックを受けました
その叔父が 私と弟に 料理を振舞ってくれたんです
温めていたのは クリームシチューです もちろん レトルトではなく手作りの!
皿に盛って 出されたとき 叔父が 私たちに言いました
「お前らに 昨日の残りのシチュー食わしてやるから!」
悪気があって言った言葉ではなかったんでしょう
でも 私は もう 5年生 子供心に 歪んで理解していました
”残り物のシチュー”
捨てるつもりだったシチュー もったいないから お前らに食わしてやるわ・・・・・
私には そう聞こえたんです
残り物・・・食べ残し・・・残飯・・・ゴミ!
その言葉を不快に感じながらも 横にいた 弟は そのシチューを 食べ始めます
ほんとに嬉しそうに! 黙って もくもくと食べている
屈辱ながら 私も食べました 悔しいけど おいしい・・・・
そして 掻き込むように食べる 私たち兄弟に 叔父は こう言ったんです
「お前ら 袋のシチューしか食べたことないだろう?」
図星だった!
続けざまに・・・
「これが 本物のシチューっていうんだぞ!」
私の母は 毎日の夕食(店を閉めた21時から)で 同じ料理しか作らない!
ジャガイモと玉ねぎを醤油と砂糖で煮て そこに卵を落としただけの 母独特の料理 それと味噌汁
これは50歳を過ぎてからなんですが この料理は 母が一番好きな料理で カレーとかハンバーグとかフライとか もちろんシチューも 自分が嫌いだから 作らなかったことを知ります
私は いつも そのおかずを食べて それから みそ汁に ご飯を入れて 犬と同じような食事をしていました
親が 同じことをしていたから・・・・
叔父の言った袋のシチューやカレーは よく 弟と 土曜日のお昼とかに 店から勝手に持って行っては 自分で温めて作って食べていた ククレシチューとボンカレーです
だから 叔父の言ったことに間違いはありません
でも 言われて 悔しかった・・・・・
叔父の家族は 前日に このシチューを 家族で 広いテーブルを囲み 笑いあって 食べている・・・・
私の家族は 毎日 同じものを 21時以降 お店を閉めた後に食べて 食事の最中では 弟と 楽しそうに笑うと 父が 急に怒りだし 茶碗を投げつけられる・・・
楽しそうに食べる叔父の家族を 想像すれば想像するほど 美味しかった残り物のシチューが 社会性の低い 私の家庭生活を 一層 惨めな思いにさせていきました
食事をご馳走になった後 小さな弟の手をつないで 1.5Kmの家路への道のりで 嬉しそうに帰る弟を見て 私は 涙が出てきました
本当に 子供の頃の 嫌な思い出です
そんな 体験をして 私は 思春期に突入して こう思うようになっていました
嫌な記憶を思い出すたびに・・・・
どうして 父と叔父は こんなにも違うんだ! 同じ親から生まれた兄弟なのに!
なんで 叔父の家族は幸せで 私の家族は惨めなんだ! 違うな 私と弟は なんで こんなにも 惨めだったんだ!
家族を大事にするって 家を大事にするってことだろう
家を大事にするって 子供を大事にするってことだろう
子供を大事にするって 先祖を大切にするってことだろう
なんで 親が 我が子に 惨めな思いをさせるんだ
なんで 親が 無抵抗の我が子を 傷つけるんだ
なんで 親が 我が子を 守ろうとしないんだ
なんでだ!
父親一つで こんなにも 子供が惨めになるのか? こんなにも 家族が悲惨な思いをするのか?って
だから 俺は 自分の子供は 絶対に守りたい! 無力な子供に寄り添い そばに居てやれるような そういう父親に成りたいんだ!って
あの時から 成人しても 結婚しても 親に成っても 子供が巣立っても ずーっと 思い続けていた
間違いなく 40年前 この 叔父の家で食べた 残り物のクリームシチューが 私の 異常なまでの家族への想いを 強くしてきたんだって・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
「○○さ~ん」
自分の世界に入り込んでいた私は 名前を呼ばれて ハッと 我に返りました
会計を済ませ 薬をもらって 病院を出ました
車に乗って 運転席に腰を下ろすと ふと 気づく
俺 自分の親が 自分だったら・・・・・ そう思って 父親してたわ!
そして この 綺麗ごとで 歯の浮くような 気持ち悪い言葉を並べた 私のBLOGも・・・
読まれることのない 子供達への 沢山のメッセージも・・・
我が子に送った メッセージじゃなかった!
子供達へ送っていたメッセージは 全部 ”子供の頃の自分” ”過去の幼い自分”へ 宛てた メッセージでした!
自分の父親に 言って貰いたかった事 救ってもらいたかった事 守ってもらいたかった事 その言葉を 自分に宛てて 書いていました!
それが 今回 女医の先生のお陰で よーく分かった
私は 幼稚な父親からの 父親コンプレックスに 苦しんでいたんだと・・・・・
帰宅すると 妻に 病院で言われたことを 細かく話しました
妻は なんとなく その話を聞いて 納得したようです
ずーっと私を見てきた妻には 分かっていたんですね
それから 妻が 「8月下旬から9月10月11月と 1日も休んでいないよ」って 言ってきたので 12月に入って 気晴らしに 京都へ行くことにしました
この間 建築はストップ状態です
京都 東本願寺へ
久しぶりの休みを貰って行ったのは 京都にある東本願寺というお寺です
鬱状態なので 京都への道のりも 妻と楽しく話せるはずもなく 途中 外食をするも 味がしないので 美味しくもなければ楽しくもない!
妻も 私に気を使ってくれているのが分かる 多分 楽しくないだろう でも 一生懸命 ”私は楽しいよ!”って 無理をしているのは よくわかりました
今回 私は ここ 東本願寺へ お詫びをしに 来ました
それは 44年前祖父が他界し 39年前に ここ東本願寺に納骨されていたからです
今回 私の判断ミスにより 区画整理後の 新しいお店 自宅を 失敗してしまった事へ 祖父に お詫びをしに来たんです
なんで祖父?って ことですが 今回の区画整理には 建て替えの補償金が頂けます
ベル商店は 昭和20年に 祖父が建てたお店兼住宅です その店を壊したことで 私は 数十パーセントの割合で 補償金を頂きました
解体費やら その他諸々 支払い分を引いたら 事実上 父の方が 沢山 貰っているんですが・・・
私は 少なくても 44年前に亡くなった祖父から 建築費の一部を頂いたことになるんです
その祖父から頂いた大切な建築費の一部を 私は無駄にしてしまったと考えたからです
だから 祖父の遺骨が眠る東本願寺へ お詫びに行きたかった
気持ちの問題だ!って 言われればそれまでなんですけど・・・
昼過ぎに 私たちが 本堂に入ると ご本尊の阿弥陀如来の前へ 妻と二人で座り 手を合わせていました
すると 静かに 後ろの方から 雨音が聞こえてきます
なぜか 雨が急に降り出しました
静まり返った本堂の中に 心地の良い音が 耳から すーっと入ってきて 私は 久しぶりに 気持ちが癒されていきました
妻と二人 1時間以上 黙って座り 合掌をしながら 私は 祖父に ”すみませんでした” ”本当にすみませんでした”と 何度も 何度も お経を唱えるように 謝り続けていました
今思うと 鬱は 自ら命を奪う危険性のある病です
あの時 とっさにとった行動(京都への旅)でしたが 祖父にお詫びをすることで 私は ほんの少し 助けられていたのかもしれません
もちろん 何も言わず 私に対して不安な気持ちのまま 付いてきてくれた妻には 本当に感謝しかありません 私以上に つまらないお出かけだったでしょうね
この後 私は 妻の助言で 大きな決断をすることになります・・・・そして 根底から覆される体験をします
Part-3へ
午前中の配達も ひととおり済ませて 11:30頃 病院へ
どこかで 恥ずかしさもあってか 午前診療の 人の少ない ぎりぎりの時間での診察で行くことに!
診察室へ

直ぐに 診察の順番が回ってきて 神経内科の女性の先生に 今の 体の状態を説明しました
この鬱症状に あまり知識のない私は『こんな感じの状態なんですが ここでの診察でよかったでしょうか?』と 尋ねました
先生は「いいですよ」と それと「これは適応障害ですね!でも 大丈夫 得意分野ですから・・・」と
なんだ?適応障害って・・・・
ストレスに対する直接の反応としての 『うつ状態』」を医学的には「適応障害」というらしいです
うつ病は ストレスに対する反応なしに 発症してしまう むしろ 自発的にうつ状態になってしまう体質的な (脳の)病気が 『うつ病』というらしいです
なので 私は 適応障害ということになります
この 鬱病と適応障害は 治療の仕方が違うらしく 単純に 適応障害の場合は 原因(建築)を取り除けば よくなると
会社でストレスがあれば 会社を辞める! 嫁姑でストレスがあれば 別居!などなど 適応障害は 原因があるため なくせばイイだけだそうです
そう言いながらも 簡単に できないから 適応障害になるんですけど・・・・
適応障害の治療に当たって 私は 先生に『すみません 抗うつ薬は 依存性があるので 違う薬ありますか?』と!
先生も 「そうですね 安定剤や 睡眠薬は 依存性が高いから やめた方が良いですね」って
即効性はないのですが 時間は掛かっても 副作用の無い お薬を1週間分 頂くことにしました
処方して頂いた薬です
その後 短い時間ですが カウンセリングを受けます 発症に至るまでの経緯と 私自身の 行動 特に家族に対しての考え方や 接し方をお話しました
多分 発症に至るまでの 最大の原因である 建築を失敗した内容は あまり理解されていないようでした
そりゃ ”家の失敗って!” なんだ?ですからね 若い女性の先生ですし・・・
しかし 家族の接し方で 子供や妻への心配する感情(心配性)には バッサリと切り込まれました
私は 家族を失う恐怖を いつも抱えていましたので・・・・
妻や子供たちを 失う事への不安を話すと 先生に言われました
「死ぬときは 誰でも死にますから 奥さんだって 子供だって いつかは 死んじゃうんですよ 気持ちは 分からないでもないですが あなたが言っていることって 地球が滅亡したらどうしよう!って言ってるのと 同じようなもんですよ・・・それって根拠の無い不安ですからね・・・」と
なんか ぼーっとした状態で 私は その言葉が 漠然と 腑に落ちたかんじでした
きっと この家族を失う恐怖は 私の欲なんだろう!それと 子供の頃のトラウマ!
長いこと話をして 最後に 私は 女医さんに こう言いました
『今回 鬱状態になって ここに来て良かったです もし 子供たちが 同じようなことになったら ここでの治療のこと 教えてあげられるんで・・・』と
私は 今まで 自分の得てきた経験や失敗を 子供たちに伝え 少しでも 苦の無い生活を送れるように 助言をしてきました
だから こんな言葉が 何も疑うこともなく 出てきたのです
私の発した言葉を聞いて 女医さんは すぐに 笑いながら 言葉を返してきました・・・・
「ハッ!ハッ!ハッ!ハ・・・ 病んでますね~っ 普通 そんなこと考えないですよ そんなこと言わなくても 子供たちは 子供たちで 勝手にやっていきますから!」
???なんだ? この笑い・・・ それと 病んでる? 確かに 俺 鬱だけど!
でも ”病んでる”の意味が なんか違うぞ!
何かを 見透かした顔で 女医さんは 医学書の様な物を読んで 私に 質問をしました
「あなた 決断しないといけないとき いつも 決められない?」
即答で
『そうですね! 昔から 迷っちゃって 決められないですね それに 決めても いつも 後悔してます・・・』
「あぁ~っ なるほどね・・・・あなた 5行の5本柱の ”心” が 相当 弱っていますね・・・これも これから ゆっくり強くしていきましょう!」
この時 やっと 私に言った ”病んでる”の意味が 分かりました
私は 適応障害の前に もう すでに 家族への考え方が歪んでいたようです
それは 子供のころからの 理想の父親という得体のしれない空想へのコンプレックス そして 今までしてきた異常なまでの 家族への執着 必要以上の家族への想いが 大きく反動し 家の失敗で 脳にダメジーが起こってしまった事を 理解しました
このBlogも まさに 異常な家族への想いだったんだと・・・・
本当に凄いわ 神経内科の先生って 人との会話で ここまで 見抜くとわ・・・・
1週間後に また 来ることをお約束して 診察は終わりました
診察が終わっても 原因が分かっても 動悸は一向に収まる気配はなく 会計へ
会計を待つ間 ある事を思い出す・・・
大量の薬を準備してもらっている間 12時を過ぎて 誰もいなくなった待合室で 俯きながら 考えていました
なぜ 私は 家を作ることに 異常なまでに執着しまったのだろう・・・
女医さんに見抜かれた なぜ 私は 家族に対して 異常なまで 理想の父親を描いていたのだろ・・・
いつから こんな 自分になっていったのか・・・
ふと 幼少の頃の ある出来事を 鬱状態の頭で 思い出していました
なぜか いつも思い出す 私の嫌な子供の頃の記憶
私の父には 弟がいます 私にとっては叔父ですけど その叔父は 1.5Kmほど離れた街に住んでいました
叔父は事業に成功して 豊かな生活です
しかし 私は 自分の家族で いつも惨めな生活をしていました
親に お金がなかったからではありません・・・
それは 私の父が 家族に対して お金を使わなかったから もっと言うと 自分より 私たちが良い思いをしていると腹を立てて 当たり散らしていたからです さらに言うと 私たちが惨めな思いをしていると自分が安心していたようでした
虐待をする親の心理みたいなもの
いうなれば 唯一暴力を振るっても犯罪にならない家族(子供や妻)を 奴隷扱いして 自分の苦痛や恐怖の捌け口にしている人です
私の父は 気が小さいくせに 見栄を張るので 八百屋の市場でも よく 他の八百屋に馬鹿にされていたのを 私は小さいころから見ていたので・・・・
多分 大人に成るという感覚もなければ 親という自覚もなかったし
劣等感を 人一倍強く感じる人だから 自分より 弱い子供を殴りつけることで自己肯定感を得ていたのでしょう
対照的な 父と叔父
私が5年生の時 私は 叔父の家で 屈辱的な思いをしたことがありました
土曜日の午後 3つ下の弟と2人で 大池という場所へ 遊びに行った帰りの事です
その近くに叔父の家があり その前を歩いていた時 叔父に呼び止められ 私たちは 豪邸に招き入れられました
立派な玄関から入った私たちは 叔父の言うまま ダイニングのテーブルに座らされます
すると 叔父は 目の前のキッチンのコンロの鍋に火をつけました
私と弟は とにかく 驚きで言葉が出ません 叔父の家に招き入れられたこともですが 家の中が 余りにも うちと違ったからです
アメリカのドラマでしか見たことないような家 文化的な家
うちと 何が違うって・・・・
私の家は ゴミ屋敷!
それに戦後の古い設備の住宅ですし 商売をしていることもあって 一般的な家庭の家とは違います 玄関がないとか 脱衣場がないとか 家の半分が店とか?
それでいて 文化的な生活に意識の無い父なので 生活水準も低いです
歯ブラシは家族で共有してるとか ご飯は2日目でも保温ジャーの中で黄色くなって臭くなっても食べるとか お風呂は 3日間洗わず ドロドロのお風呂に入るとか 台所には すぐに洗わないので いつも油まみれの皿と食べ残しが山になっているとか
叔父の家とは 余りにも違いすぎて 大きなショックを受けました
その叔父が 私と弟に 料理を振舞ってくれたんです
温めていたのは クリームシチューです もちろん レトルトではなく手作りの!
皿に盛って 出されたとき 叔父が 私たちに言いました
「お前らに 昨日の残りのシチュー食わしてやるから!」
悪気があって言った言葉ではなかったんでしょう
でも 私は もう 5年生 子供心に 歪んで理解していました
”残り物のシチュー”
捨てるつもりだったシチュー もったいないから お前らに食わしてやるわ・・・・・
私には そう聞こえたんです
残り物・・・食べ残し・・・残飯・・・ゴミ!
その言葉を不快に感じながらも 横にいた 弟は そのシチューを 食べ始めます
ほんとに嬉しそうに! 黙って もくもくと食べている
屈辱ながら 私も食べました 悔しいけど おいしい・・・・
そして 掻き込むように食べる 私たち兄弟に 叔父は こう言ったんです
「お前ら 袋のシチューしか食べたことないだろう?」
図星だった!
続けざまに・・・
「これが 本物のシチューっていうんだぞ!」
私の母は 毎日の夕食(店を閉めた21時から)で 同じ料理しか作らない!
ジャガイモと玉ねぎを醤油と砂糖で煮て そこに卵を落としただけの 母独特の料理 それと味噌汁
これは50歳を過ぎてからなんですが この料理は 母が一番好きな料理で カレーとかハンバーグとかフライとか もちろんシチューも 自分が嫌いだから 作らなかったことを知ります
私は いつも そのおかずを食べて それから みそ汁に ご飯を入れて 犬と同じような食事をしていました
親が 同じことをしていたから・・・・
叔父の言った袋のシチューやカレーは よく 弟と 土曜日のお昼とかに 店から勝手に持って行っては 自分で温めて作って食べていた ククレシチューとボンカレーです
だから 叔父の言ったことに間違いはありません
でも 言われて 悔しかった・・・・・
叔父の家族は 前日に このシチューを 家族で 広いテーブルを囲み 笑いあって 食べている・・・・
私の家族は 毎日 同じものを 21時以降 お店を閉めた後に食べて 食事の最中では 弟と 楽しそうに笑うと 父が 急に怒りだし 茶碗を投げつけられる・・・
楽しそうに食べる叔父の家族を 想像すれば想像するほど 美味しかった残り物のシチューが 社会性の低い 私の家庭生活を 一層 惨めな思いにさせていきました
食事をご馳走になった後 小さな弟の手をつないで 1.5Kmの家路への道のりで 嬉しそうに帰る弟を見て 私は 涙が出てきました
本当に 子供の頃の 嫌な思い出です
そんな 体験をして 私は 思春期に突入して こう思うようになっていました
嫌な記憶を思い出すたびに・・・・
どうして 父と叔父は こんなにも違うんだ! 同じ親から生まれた兄弟なのに!
なんで 叔父の家族は幸せで 私の家族は惨めなんだ! 違うな 私と弟は なんで こんなにも 惨めだったんだ!
家族を大事にするって 家を大事にするってことだろう
家を大事にするって 子供を大事にするってことだろう
子供を大事にするって 先祖を大切にするってことだろう
なんで 親が 我が子に 惨めな思いをさせるんだ
なんで 親が 無抵抗の我が子を 傷つけるんだ
なんで 親が 我が子を 守ろうとしないんだ
なんでだ!
父親一つで こんなにも 子供が惨めになるのか? こんなにも 家族が悲惨な思いをするのか?って
だから 俺は 自分の子供は 絶対に守りたい! 無力な子供に寄り添い そばに居てやれるような そういう父親に成りたいんだ!って
あの時から 成人しても 結婚しても 親に成っても 子供が巣立っても ずーっと 思い続けていた
間違いなく 40年前 この 叔父の家で食べた 残り物のクリームシチューが 私の 異常なまでの家族への想いを 強くしてきたんだって・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
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「○○さ~ん」
自分の世界に入り込んでいた私は 名前を呼ばれて ハッと 我に返りました
会計を済ませ 薬をもらって 病院を出ました
車に乗って 運転席に腰を下ろすと ふと 気づく
俺 自分の親が 自分だったら・・・・・ そう思って 父親してたわ!
そして この 綺麗ごとで 歯の浮くような 気持ち悪い言葉を並べた 私のBLOGも・・・
読まれることのない 子供達への 沢山のメッセージも・・・
我が子に送った メッセージじゃなかった!
子供達へ送っていたメッセージは 全部 ”子供の頃の自分” ”過去の幼い自分”へ 宛てた メッセージでした!
自分の父親に 言って貰いたかった事 救ってもらいたかった事 守ってもらいたかった事 その言葉を 自分に宛てて 書いていました!
それが 今回 女医の先生のお陰で よーく分かった
私は 幼稚な父親からの 父親コンプレックスに 苦しんでいたんだと・・・・・
帰宅すると 妻に 病院で言われたことを 細かく話しました
妻は なんとなく その話を聞いて 納得したようです
ずーっと私を見てきた妻には 分かっていたんですね
それから 妻が 「8月下旬から9月10月11月と 1日も休んでいないよ」って 言ってきたので 12月に入って 気晴らしに 京都へ行くことにしました
この間 建築はストップ状態です
京都 東本願寺へ
鬱状態なので 京都への道のりも 妻と楽しく話せるはずもなく 途中 外食をするも 味がしないので 美味しくもなければ楽しくもない!
妻も 私に気を使ってくれているのが分かる 多分 楽しくないだろう でも 一生懸命 ”私は楽しいよ!”って 無理をしているのは よくわかりました
今回 私は ここ 東本願寺へ お詫びをしに 来ました
それは 44年前祖父が他界し 39年前に ここ東本願寺に納骨されていたからです
今回 私の判断ミスにより 区画整理後の 新しいお店 自宅を 失敗してしまった事へ 祖父に お詫びをしに来たんです
なんで祖父?って ことですが 今回の区画整理には 建て替えの補償金が頂けます
ベル商店は 昭和20年に 祖父が建てたお店兼住宅です その店を壊したことで 私は 数十パーセントの割合で 補償金を頂きました
解体費やら その他諸々 支払い分を引いたら 事実上 父の方が 沢山 貰っているんですが・・・
私は 少なくても 44年前に亡くなった祖父から 建築費の一部を頂いたことになるんです
その祖父から頂いた大切な建築費の一部を 私は無駄にしてしまったと考えたからです
だから 祖父の遺骨が眠る東本願寺へ お詫びに行きたかった
気持ちの問題だ!って 言われればそれまでなんですけど・・・
昼過ぎに 私たちが 本堂に入ると ご本尊の阿弥陀如来の前へ 妻と二人で座り 手を合わせていました
すると 静かに 後ろの方から 雨音が聞こえてきます
なぜか 雨が急に降り出しました
静まり返った本堂の中に 心地の良い音が 耳から すーっと入ってきて 私は 久しぶりに 気持ちが癒されていきました
妻と二人 1時間以上 黙って座り 合掌をしながら 私は 祖父に ”すみませんでした” ”本当にすみませんでした”と 何度も 何度も お経を唱えるように 謝り続けていました
今思うと 鬱は 自ら命を奪う危険性のある病です
あの時 とっさにとった行動(京都への旅)でしたが 祖父にお詫びをすることで 私は ほんの少し 助けられていたのかもしれません
もちろん 何も言わず 私に対して不安な気持ちのまま 付いてきてくれた妻には 本当に感謝しかありません 私以上に つまらないお出かけだったでしょうね
この後 私は 妻の助言で 大きな決断をすることになります・・・・そして 根底から覆される体験をします
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