この場をお借りして お得意様へ
この度は義理の父の危篤から2週間 お取引様には大変 ご迷惑をお掛けしました
また 多大なるご協力と ご配慮を頂きました事 心より感謝申し上げます
本当に お客様からの優しさは 商売冥利に尽きます
ありがとう御座いました
2022年8月30日 妻の父 永眠
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妻の父の葬儀 |
9月1日 葬儀が執り行われました
このことで私が感じたことを 妻と子供達へ 残すことにします
ここからは 頭のねじがズレた 老いたジジイの 自分に酔った戯言を書きますので 閲覧される方は不愉快になられるかもしれませんので ご注意ください
2022年8月6日
実家の妻の姉から 妻に電話がありました
そのことを 妻が 私にLINEで 送ってきました
〇〇さん(姉)から連絡があって じいちゃんもう駄目だって 今日か明日かだって
私は???何?
妻へ
何が駄目なの?
妻から
意識失って 死んじゃうんだって
私は ピンと きませんでした
それは 妻の父は入院していて もう少ししたら退院で 何処の施設でお世話になろうか?と たまに 妻と 妻の姉が LINEで やりとりをしていたから
私達も 退院したら お得意様に頼んで 金曜日の夜から日曜日まで 休みを貰って 二人で帰省する 計画を立てていたところでしたので
妻の実家へ帰省するには14時間かかります それも 天候次第では 帰れません
もし 帰省して 天候が悪化すると お店に戻ることが出来ず 仕事上 お客様に迷惑がかかるので 私達は どうしても 2人で帰ることが出来なかったんです
しかし 今回の計画は 小売りも辞めて 卸売りも減らしている状態のベル商店ですので 何とか2人で 近々 帰省しようと 決めていました
久しぶりに 帰省して お義父さんに会えると思っていたのに 今日・明日で 亡くなっちゃうって・・・・
LINEを受け取って 1時間後 妻が 帰宅しました
私は 妻に
『お義父さん ダメなの?』と聞くと
妻は
「うん 意識なくて 病院の先生から 今日明日には って言われたらしいの」
『直ぐに 帰る?』
「帰らない! 仕事もあるし 帰っても 会えないんだって・・・」
『どういう事? 今から 飛行機のチケット取るから 明日の朝には着くじゃん!』
「帰っても コロナで院内に入れないらしいの それに 結婚するとき 遠くへ嫁ぐから 両親の死に目には会えないって覚悟決めて来たから 大丈夫だよ」
『そんなこと言うなよ 俺が お姉さんに連絡して どうやってでも合わしてやるから』
「ありがとう でも ダメだと思うよ」
何度か 妻の姉にLINEをして 頼んだのですが 病院の許可が下りないと!
妻の言う通りでした
やはり このコロナと言う異常な状態では どうしようもありませんでした
コロナ禍で 親の死に目に会えず 泣いている方が 大勢いる事を知ります
じゃ なぜ 私が ここまでしても 妻を お義父さんに 合わせたかったのか?
14年前 妻は母に会えず・・・
それは 14年前 妻は 母親に 会うことなく 亡くしています
それも 7年間 一度もです
最後に 母親に会ったのが 次男が生まれた年の 2000年の冬でした
その次男は もう 小学校に通います
じゃ なぜ 7年も帰省をしなかったか!
次男が生まれて しばらくしてから 私達家族6人で お披露目の為 次男を両親に合わせに帰省しました
その帰省をして 帰宅した妻へ 私の両親が 散々嫌味を 言ったからです
私の親もまた 私と同じで無神経で 自己中心的な人なので 心無い言葉を 妻に浴びせました
妻は そのことで 母親が亡くなるまで 一度も 実家に帰りたいとは言いませんでした
いや 言えなかったんです
私も そのころ 自分の父と母との関係で ”親孝行をすると子供たちが 幸せになれると!” 意味もない洗脳を受けていて 妻への配慮など 考えてもみませんでした
妻の母親が亡くなった連絡を受けるまで 7年間も帰らせていなかったなんて・・・
妻の母親の死で やっと 気が付いたんです
私は こんな 最低なことを 妻にしました
あの時 ここまでされても 我慢し続けた妻に 父親の時には 絶対に こんな思いはさせないと 決めたんです
その後 妻の母親の死を 機会に 私は 自分の両親との接し方を 少しずつ 変えていくことになりました
だから 今は もう 障害になる私の両親とは 離れているので 妻が 気兼ねすることはありません
今は まさに その時!
仕事の段取りだけできれば 妻は 何も気にすることなく 父親との 最後の再会が出来ます
これから 何が起こるか分かりません もしかすると 会えるかもしれないんです
コロナ禍で 病院へは行けないかもしれないけど 何かが・・・
そう信じずにはいられない!
妻には 何時でも帰れる支度と準備は してもらっていました
それから 数日 妻の姉からは連絡がありません
私も 何時でも 飛行機のチケットを取れるように PCのJETSTARのページと アプリのJETSTARを 数時間おきに チェックします
8月15日
世間は お盆休み 真っただ中
姉から LINEで 連絡が入りました
「持ち直して 看取り介護に変わったから 会えるよ!」って
退院は18日 退院後の余命は 1週間後の 25日
奇跡が起きた!
妻の父親は奇跡的に意識を取り戻して 数日間 頑張っていた・・・最後の力を振り絞って
もしかして 離れて暮らす 末っ子の娘(私の妻)に 会う為だったのかもしれない!
私は 直ぐに JETSTARのチケットを取りました
18日出発 妻と長男と次女
丁度 長男と次女が お盆休みで 妻といっしょに帰省できることに!
翌日19日出発 長女夫婦
お盆休みの無い長女夫婦が 3連休取れたからと 後を追うように 帰省
1週間後25日出発 私と次男
次男は5日間の休みが取れて 私と二人 妻たちと入れ違うように 帰省
次男と私は お義父さんの余命を過ぎた26日到着です
私は 最後に どうしても 33年前の約束を 未だに守っていることを伝えたいと 最後のお別れに出発しました
ちなみに 妻は 私とお義父さんとの約束を知りません
ここから・・・
私の 酔ったお話です 観覧注意!
私の子供達へ そして 妻へ
私と かぁかのお父さん(おじいちゃん)との 約束を話します
くだらない どうでもいい 戯言の様な約束ですが 書き残します
1988年 当時 私は 全日制の高校を中退して 再度 夜間高校に入学した2年生の高校生でした
かぁかは その夜間高校を 2年生で中退して 実家に戻っていたところを 私が 連れ戻しました
私20歳 妻17歳
頭の弱い 幼稚な二人です
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夜間高校 体育館 |
こんな 二人が ゴミ屋敷だったベル商店に 一緒に住み始めます
当然 商店街なので 白い目で見られていました
”ベルのバカ息子が九州の女 連れ込んだぞ!” って・・・・・
私の母は そのことが 恥ずかしかったのか かぁかの肩書を偽って 近所のお客さんには看護師だって 言ってました
そんな嘘をつかなくても あの頃のベル商店なんて 私も 弟も 酷いありさまだったし 人間らしい生活なんて してないんですから ありのままで良かったんですが 近所への体裁だったんでしょう
一緒に住みだして かぁかは 八百屋を無給で 手伝っだい始めました
ゴミ箱状態のベル商店は かぁかのお陰で 少しずつ ゴミも無くなって 八百屋をやりながら家事もこなし まともに 人が住めるような家に変わっていきました
かぁかのお陰で ベル商店は 少しずつ 良い方向へ 変わっていきます
一緒に住み始めたとはいえ まだまだ 幼稚だった私なんですが 1年後 1989年 夜間高校の3年生の冬に かぁかに結婚を申し込みました
普通は ”結婚してください”って言うところ 私は ”結婚するぞ!”と 相手の答えなんてお構いなしの プロポーズです
勿論 嫌なって 言わせません!
こうして 結婚を勝手に決めて 私達は かぁかの親へ 報告に行くのですが
ここで 私の人生を変える約束を お義父さんとすることになります
何度も言いますが くだらない 約束です!
当時 私21歳 かぁか18歳
その年の冬 二人で かぁかの実家へ 挨拶に行きました
あの頃 まだ 幼稚な私は かぁかの実家へ行っても かぁかの両親に対して 遠慮なんてものはありません
ですから 図々しい態度で 挨拶に行きました
「娘さんと結婚するんで よろしく!」って こんな感じの挨拶です
普通 最低でも ”娘さんを下さい” って 挨拶するのに そんな 謙遜した挨拶はしませんでした
家に お邪魔して 当たり前のように朝昼晩 飯を食べて 当たり前のように風呂に入いって 当たり前のように布団で寝て・・・
私が どんだけ非常識な男なのか!
ほんと非常識極まりない男です!
しかし・・・・・
かぁかとの結婚を報告した日の夜だけは 違いました
私が風呂から出て 入れ替わりに かぁかが風呂に入った時
炬燵に対面で座っていた お義父さん(じいちゃん)が 芋焼酎のお湯割りを ほろ酔い気分で飲んでいます
その時 風呂上りの私に ニコニコと笑いながら 話しかけてきました
うん・・・なんだ???
「あ~ん~ え~ まさゆきくん~
あ~ん~ 二人ば お互いが 好きやっけん おいが だめって ゆうたけん
結婚ば かってに するんじゃけん 反対ば せんけど
あ~ん~ う~ん~ そいじゃけん 結婚するとば よかけんが いっこだけ いいねん
あ~ん~ こんな田舎やけん 離婚ばするとなっと
かー(かぁか)が ここに戻ってくるっと
そしたら かーが 肩身の狭い思いをするけんが それだけば やめてくれっけんかな・・・
あ~ うん~ はっ!はっ!はっ!」
すると 横で洗濯物をたたんでいた お義母さんが・・・・
「も~っ せからしか! そがんこつば いわんでいいと!
まさゆきくんなら わかってるっから だいじょうぶたい!」
って・・・・
私は この 夫婦の会話を聞いて はっとしました!
父親の 娘に対する愛情 母親の 娘に対しての信頼
私の親には無い 子供への愛情と信頼
お義父さんと お義母さんの 何気ない やりとりでした
でも 私には 深く刺さってしまっていたのです
これが 家族と言うものなのか? 親子って言うものなのか?
私は 結婚を 簡単に思っていました
結婚するって 相手の親の想いも 背負う事だったって・・・
今思えば こんな非常識な男を 何も言わずに受け入れてくれた 妻の両親は 本当に 寛大な心を持った人だったんだなと 思えます
そして その重みを お義父さんとの約束を守ることで 私は 妻の両親へ返そうと決意しました
『お義父さん 大丈夫っすよ 絶対に離婚は しませんから!』と 返事を返します
妻の父から
「そがんなら よかったい はっ はっ はっ・・・・」
妻の母は
「もーっ よけいな こっば いわんでも よかと~っ!
ねぇ まさゆきくん・・・」
と これだけの 話なんだけど!
これが 私と妻のお父さんとの 約束です
そのあと 寝るときに かぁかに 聞いたんだよね
『なぁ~ お前 結婚する前だけど どうしたら 俺と離婚になっちゃう? 』って
「そんなん 決まってんじゃん 浮気したら 即 離婚だわ!」 即答だった
ドキッとしながら 聞き返す
『あっ そうか それじゃ お金で女の人と遊ぶのは イイの?』
「駄目に 決まってんじゃん!」これも 即答だったわ
妻は 3年で 九州弁から 三河弁に 変わっていました
あれから 33年 お義父さんとの約束を守るために・・・
私は お酒も飲まない! タバコも吸わない! 博打もしない! そして 女の人とも遊ばない! 世間一般に言われる 遊びごとをしない つまらない男になっていました
正直 女の人は 沢山のチャンス誘惑は ありましたが ぜ~んぶ 断りました
私が既婚者って知らずに声をかけてくる女性も 分かっていて声をかけてくる女性も
もちろん お金を支払って遊ぶ女性も
意外とモテていたんですよ 背も高かったし 言葉も達者だったし 建築業界(建材)にもいたし
ちょっとした昔ばなしで・・・
私が 20代前半の建築資材の営業マンだった頃 夕方 マンションの建築現場に 行ったとき お客様(上の方)で 私に話しかけてきました
「おー鈴木君 あそこに 女の子と遊ぶ店があるんだけど 鈴木君 ここで終わりだろ 行くか!」
『えっ どこですか?』
基本 女の人とは 遊ばないので 酒を飲む場所かと思って!
「あそこ!あそこ!」
大通りを挟んだ 道の向こう側を 指でさしました
『あれですか?本格的に遊ぶとこですね~』
ピンクのネオンが ギラギラしてたので ピ~ント・・・
「金がないなら おごってやるぞ!」
嬉しそうに 誘われました
しかし ここで 私は 営業マンなのに・・・
『マジっすか? え~っ 行きたいんですけど うち 嫁さんが 嫌がるんですよ』
仕事のことや 今後の付き合いの事 後先考えず 答えちゃったんです
そしたら
「は~ぁん 鈴木君 そういえば お前 酒も飲まんし 博打もせんし それでいて 女もやらんって ”生きてて 楽しいか?” ほんと つまらん男だな~」
こう言われたんです
いや~っ 今になって よく考えたら やっぱり つまらん男ですわ OTL~
この言葉は 案外 私の心に残っておりまして やはり 遊びごとをしない私は 小さい男なんだと 今でも 自覚しています
まっ それでも 妻の父との約束もありますし それに 相当 私は妻から尽くされていましたからね
それと 平成19年から21年 町内会の厄年会の打ち上げで 私はコンパニオンの参加を拒否して 当時の厄年の方たちに 迷惑をかけています
私の勝手な 妻の父との約束で 女性とのお酒の席を無くしてしまい 大変申し訳ないことをしました
今思えば 40才の男のすることでは無いですよね
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妻の実家から 潮の可香薫公園で |
あれから33年経って 一応 お互い 50を過ぎたけど 聞いてみたんだよね
『なっ かぁか こんな年になったんだけど 熟年離婚って多いじゃん 俺らって 大丈夫だと思う?』
「大丈夫だけど マーくんが浮気したら 即 離婚ね!」
『やっぱり・・・ 一応 確認だけど お金で遊ぶのも駄目だよね?』
「行ってみればいいじゃん・・・・・」薄笑い
まっ 33年も経つと 言葉は変わりますが プレッシャーは 変わりませんでした
聞いた 私も馬鹿ですけど
何度も言いますが 妻は 私と父親との約束を知りません
2022年9月1日
葬儀が終わって
葬儀が 無事 終わり 14時間かけ 妻が実家から戻って来ました
迎えに行ったセントレア空港からの帰り 車の中で かぁかが 私に言ってきました
「あのね じいちゃんね ああ見えて 私達 姉兄の事 本当に 大切に想っていたんだって 葬儀の時に 近所の人達が みんな言ってた!
何にも言わない じいちゃんだから 私が子供の頃 姉兄の事や 家族の事 考えていない人だと思ってた・・・
亡くなる前にも 自分の葬儀代 お墓の費用も 私達子供が 負担にならないように 年金を少しずつ貯めて残してたらしいの・・・生活 苦しかったのにね
マーくんが いつも送ってたお金も 使わなかったかもしれないね・・・・」
妻が子供の頃 タンカーに乗っていた義理の父は 半年に一回 帰ってくるだけで 妻にとっては 父親という認識の薄いお父さんだったそうです
その後 タンカーを降りても 妻は 私と暮らしていましたから 父親との時間は短かったようです
それと 本来ならば 経済的にも 楽に暮らせたのに 子供(姉兄)の金銭的なトラブルもあって 苦労されていました
かぁかへ
お前のお父さん 凄い 愛情深い人なんだぜ!
33年前 恥ずかしそうに 酒の勢いで 俺に言った あなたへの愛情いっぱいの あの言葉が 私の一生を変えてくれたんだ
それに 最後 孫たちに 人の命の終えていく瞬間を 身をもって伝えてくれたし
それから 14年前 あなたの母親が亡くなった時 俺は 7年も 会わせてあげられなかったこと ずーっと後悔していたんだ
それなのに お義父さんも同じことをしてしまったら もう これからの人生 立ち直れない程の後悔が残るところだったよ
退院してから 栄養も 水分も摂取できない状態で 10日間も 頑張ってくれて
俺と行った次男なんか 殆ど諦めていたのに お祖父ちゃんに 会えて 今の職場で頑張っている写真を見せることが出来て 本当に喜んでいたんだぜ!
俺も 最後 お義父さんに
『お義父さん まさゆきです かー(妻)と 仲良くやってますよ ちゃんと 約束守ってますから 安心して下さい』 って 伝えることが出来たし
それと 最後のお義父さんとの写真だけど
このことで あなたに感謝していることがあるんだ
あなたが撮ってくれた この写真 俺が 子供の頃から目指していたものなんだよね
私の目標 そして 生きる目的
お義父さんが 家族みんなで 写った 最後の写真
俺が 小学校の時 家族の温かさの無い子供時代 毎週 ドラえもんというアニメを見ていて のび太君という男の子が 未来で しずかちゃんという女の子と 結婚している描写が 何度もあった
それを見るたびに いつも 自分の未来の事を考えていたんだ
俺は どんな女の子と結婚するのかな? 俺の子供はどんな子かな? 子供は4人欲しいな!
その奥さんと4人の子供と楽しく過ごしてるのかな?
その子供たちが 大人に成って自分の家族をつくって
俺は おじいちゃんになって 孫と遊んで
俺が死ぬとき 沢山の 俺の家族に囲まれて 天国に行けるかな?って
そんな妄想をしていた
小学生で こんな夢をみるなんて ほんと 心の歪んだ子供時代だよな
でも 今 その夢は あなたのお陰で 全部 叶おうとしているんだ
人生の最後に 自分の子供達が育てた家族に囲まれて 生涯を終えることができたら そんなん もう 最高の人生じゃん!
そんな最高の人生を あなたの お父さんが 現実に 見せてくれたんだ!
お義父さんの最後の写真 ”俺の目標 そして 生きる目的” そのものだわ
あの時の あなたの父親との約束が 俺の幸せの種になってる
その種が 4つの立派な花を咲かせて 俺の願いが叶う!
子孫繁栄(我が子)こそが 俺にとって 最も大切なもの・・・・・
簡単そうで とてつもなく難しいこと!
それを 現実にした あなたの父親を 私は 心から 尊敬しています
子供達へ
どうか 俺の夢をかなえてくれ!そして 自分にとって 素晴らしい人生を 生きてくれ!
俺が この世を去る時 あなた達の育てた家族 みんなで 送ってくれ!
これからも ずーっと お祖父ちゃんとの約束 守り続けるから・・・・・
妻と子供達へ残す動画
この動画を見て また お義父さん(お祖父ちゃん)の事を思い出してください
親は 命の壁 ずーっと安心して生きてきた
次は 自分の番なんだな・・・
長生きしてくれて ありがとう御座いました
それと 妻と出会わせてくれて感謝してます
また あちらの世界でも かー(妻)と二人で仲良く 手を繋いで 逢いに行きますよ