このごろ少し 暖かい日が続いています
もう 季節は春なんですね
そんな折 夫婦で お墓参りに行ってきました
ご先祖様が眠る お墓のある お寺!
基本的に お墓参りを 両親はしませんので 私達の家族しか行かないお墓なのですが 年に 十数回は行っています
そのお墓のあるお寺は 自宅から 距離にして15Km 30分程の所にあります
今日 お墓参りをしているときの事です
若い女性から「あの~っ すみません! ここに 今川義元の首塚があるって聞いてきたんですけど!」と・・・・
うん なんだ!
そんなの 子供の頃から ここに来ていて 聞いた事がない!
『えっ! そうなんですか? そんな話 聞いた事がないんですけど・・』と答えた!
女性の後ろには ご主人様が! その奥の方で 小さな子供の声が聞こえていた
家族で 歴史めぐりをしているようでした
私が 考えていると すぐに 奥様が 携帯電話を取り出し お写真を私に見せて 「ここですよね~」って
確かに 写真は このお寺だった!
写真を見て 『そうですね このお寺ですね』と・・・
続けて 『首塚の話は 初めて聞きますけど 子供の頃 この裏山へ登る道があって そこに 塚は沢山ありましたよ』と 登り口まで 一緒に行って 山道を説明しました
お若いご夫婦も 「ありがとう御座います ここへ登って見て来ます」と 車に乗っている子供を迎えに行きました
私も そのご夫婦に 『こちらこそ 義元の首塚があるなんて 今まで知りませんでしたから 教えていただいて ありがとう御座いました』と お別れをしました
今まで 何十回 何百回とお墓参りをしてきて 一度も そんな話を聞いた事がなかった!
これこそ青天の霹靂だ!
私の中に衝撃が走った!
それは このお寺が 私の曾祖母の実家 祖父の実家だったからです
昔々の話なので 色々と複雑な話がありまして 祖父が幼少の頃 事情があって 両親無く 1人で このお寺に お世話になっていました
その後 大人に成って 今の安城市で 大正13年ごろから 八百屋を始める事になります
昭和に入って 祖父の父親(曽祖父)が 京都で亡くなり 祖父が遺骨を引き取り このお寺に お墓を建てました
今は 祖父も祖母も亡くなり こちらのお墓に入っていて 私達が 供養をしています
そんなところで 私達は 未だに 檀家寺では無いのですが このお寺に ご縁があります
それと 祖父の始めた八百屋さんも 父 私と 繋ぎ ベル商店として 今に至るまで 営業させて頂いております
ちょっと 余談ですが この ベル商店! 大正時代にしては けっこう ハイカラな店名でして
八百屋といえば 八百重とか 八百正とか お世話になっている八百七とか 八百〇という風に 屋号に 八百が付くのですが 祖父は ベル!と カタカナ文字の 英語名の屋号を付けました
大正時代にベルって・・・何?って 感じですけど
今考えると 私の祖父は 頓知が あったんでしょう
ちなみに ベルは 苗字の鈴から来ています・・・・
首塚の前に 今川義元って 誰?
2017年大河ドラマ「おんな城主 直虎」が放送されています
私は このドラマシリーズが好きで 土曜日の再放送で観ているのですが この直虎の里が 静岡の浜松にあります
戦国時代 この浜松(遠江国)を支配していたのが 駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名 今川義元でした
義元のイメージは 武士なのに公家を装う 浮かれた駄目武将と 一般的には認識されているようです
TVドラマでの描かれ方も 多くは 白塗りに お歯黒を施した扮装がされていて ドラマの内容も 25000の兵が 6000の兵に敗れるという 無能な大名として 映し出されています
上のお写真は NHK直虎で 笑点司会の落語家さんが扮する今川義元ですが ぱっと見 武士のイメージでは 無いですよね!
しかし 実際の今川義元は 桶狭間で敗れるまで 有力な武将 優秀な武将でした
あの時代にして 駿河国で検地をして 国力を高め その財力で公家に援助し 兵士は農民までも使い 寄親 寄子制度を作り 兵士の組織力を高めました
武田 上杉を上回る 武将だったんです
しかし なぜ そんなイメージが付いてしまったのか?
それは 言わずと知れた 隣の国 尾張に 天才武将 織田信長が居たからです
もし 信長が居なかったら 今川義元が 天下を取っていたのかもしれませんね
そんな 天下統一に突き進んだ天才信長も 後々 この今川義元を 尊敬し手本にして 快進撃をしていきました
その証拠に 永禄3年5月19日 桶狭間で奪った 今川義元の愛刀 左文字を 出陣の度に いつも携えて 生涯 大切に持っていたそうです
その後 その刀は 秀吉 家康と 天下人へ 次々と受け継がれていきます
今は 京都市北区船岡山の 織田信長を主祭神とした 建勲神社に 重要文化財として保管されています
この時代になって また 信長の所に 戻ってきたんですね
今川が敗れた桶狭間の戦いとは
信長27歳 義元41歳
今川義元は しっかりとした軍の統率を図り その大きな組織力を作って 大軍で三河から尾張へ進軍しました
その一方で 織田信長も 今川義元の組織力を真似て 小さいながらも組織的な軍を作っていました
国力の無い信長が目指した組織作りは 重臣を使わず その重臣の子供で 次男や三男を そして 名も無き若武者を集い 能力の高い青年達で 少数精鋭ながら 強い軍を作りました
織田軍にとって 絶対的不利の状況の中 今川軍へ 信長は 多くの情報を使って 奇策を 立てて挑みます
桶狭間の合戦
永禄3年5月19日に 今川軍の侵攻が始まりました
今川軍は 織田軍の大高城をはじめ その周辺の砦を 攻め崩し 清洲城の本陣へ向う作戦でした
その 大高城攻めの 今川軍は 前線に10000の軍 後方の守りに10000の軍 本陣に5000の軍の 陣形を取っていました
余裕のあった本陣の今川義元は 桶狭間の見晴らしの良い山で 陣を引いて休憩を取ることに!
正午0時の事です
その頃 織田軍は 今川軍に気付かれないよう 3000の軍を分散して 熱田神宮に集結させました そこから 最前線の砦のあった善照寺(鳴海町)に移動します
集結の後 信長の戦略として 善照寺から 300ほどの おとりの兵を 今川軍へ放ちます
その織田軍の おとりの300の兵に 今川軍の本陣から 多くの兵が 加戦しに行きました
こうして 今川軍の本陣には500程の兵しか残らず 手薄になったわけです
今川義元は この戦いで 信長が 清州城で 籠城戦をするものだと 考えていたのでしょう
勝ち目の無い信長にとって 最善の戦法が 籠城戦だったから・・・
確かに そう考えるのが 一般的なセオリーですから
しかし 信長は 違ったんですね!
おとりで大勝させ 今川義元を油断させた後 織田軍は さらに分散し奇策を仕掛けます
善照寺に700の兵を待機させ 織田軍の幟を立て あたかも織田軍が 善照寺に留まっているように見せかけます
今川軍に気付かれないように 桶狭間山から 2.5Kmほどの 中島砦(左京山)まで 2000の少数精鋭部隊を移動します
ここ中島砦で 今川軍への攻撃のタイミングを待ちます
午後1時
桶狭間の空は 雨雲で覆われ 薄暗くなっていきました
しだいに 雨が降り始め 今川軍の本陣が その雨をしのぐ為に さらに拡散します
それと同時に 雨音で 信長の軍の進撃の音が 消え去ります
ここに 信長の勝機が生まれ 一斉に 進軍します
今川義元は 清洲城に居ると思っていた織田軍2000に 意表を突かれ 奇襲をかけられたのです
信長は
おのおのが 手柄を立てることを 気にせず 勝ことだけを考えよ!と 号令をかけ
取るのは今川義元の首のみ!と 指令をだします
こうして 25000の兵の今川軍を 6000の織田軍が勝利し 今川の首を討ち取りました
簡単な桶狭間の戦いの説明です
今川義元の首塚のいわれ
問題は 取られた義元の首ですが 義元の首は 愛知県名古屋市にある長福寺で 首実検にかけられました (首実検とは本物かどうかの確認する事) これは長福寺の案内板に書かれているのですが 義元の茶坊主であった林阿弥(りんあみ)が首実検を命ぜられています その後 首は清須市の須ヶ口という所でさらされました
その後 家臣の岡部元信が君主の首を取り戻します
義元が 桶狭間で織田信長に敗れてからも 岡部元信(おかべもとのぶ)という今川方の重臣は 現在の名古屋市にあった鳴海城で奮戦していました 岡部は信長と交渉し 義元の首と引き換えに 鳴海城を明け渡すことにしたのです 首を受け取った岡部は 駿河国を目指します しかし 当時は初夏でした(桶狭間の戦いが6月12日) 首実検をするときは 塩漬けにしたりして腐敗の進行を何とか遅らせようとはしますが 気候のせいで なかなかそれも長続きしなかったのでしょう 傷みが早く 岡部はやむなく途中立ち寄った寺に塚を築いて首を埋葬しました それが 愛知県西尾市にある私の曾祖母の実家 祖父の実家 我が家のお墓のあるお寺です
今川義元の首塚です

話が いろいろと それましたが 調べた結果 このお寺に その今川義元の首が 祭られているという事になっているようです
実際のところ 確証は無いのですが そのように 言い伝えられているそうです
このお寺に そんな歴史上の人物が眠っているなんて思いもせず 突然 教えて頂きました お若いご夫婦の方には ほんと感謝で御座います
良い勉強が出来ました ありがとう御座いました
それと 今では 曾祖母 祖父の時代と 代も 大きく変わり このお寺と 親戚付き合いをしているわけでは無く だた お墓を守って頂いているだけですので お寺の名前は伏せておきます
ちなみに こちらは浄土宗のお寺で 私達は 曽祖父の方の檀家で 真宗で御座いま
す
首塚への登り口です

こちらが 首塚への 入り口になります
ここを登っていくと 塚が有りますので ご興味のある方は 行ってみてくださいね
お寺には 駐車場もあります
ほんと 今日は 妻も私も ビックリ!
また 子供を連れて 行ってみようかな・・・・・・